ひさしぶりのブログ

更新が滞っていたので、更新してみることにした。あまりこれまでやっていなかった、iOSアプリを用い、iPhone 8 Plusで。

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腓腹筋(ひふくきん)部分断裂

 
 大晦日の朝、息子とサッカーボールを蹴っていた。数十メートル先の息子に向けて、右足のインステップ(右足の甲から少し爪先にかけてのあたり)で強めにボールを蹴った瞬間、右ふくらはぎのあたりでブチッという音がしたというか、思いっきり投げた小石が右ふくらはぎに当たったような気がした。

 以来、左右均等に足を運ぶことができず、早歩きや小走りができない状態にあるのだが、年末年始だったこともあり、できるだけおとなしくして様子を見ていた。

 数日たってもほんの少し良くなった程度なので、昨日、病院で診察を受けたところ、「腓腹筋(ひふくきん)部分断裂」と診断された。平たくいえば、「肉離れ」のことのようだ。これまでにも捻挫(ねんざ)したり、足がつったことは何度もあるが、「腓腹筋部分断裂」は初めて。現在、右ふくらはぎに湿布を貼っていて、1週間後くらいに経過をみせに来てほしいといわれている。

 みなさん、気温の低いこの季節、運動の前はいつも以上に入念に、ウォーミングアップをしましょう。
 
 
 

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医師とUFOキャッチャー

 
 胃の内視鏡検査を受けた。検査後、自分の胃の画像を見ながら、何か見つかって内視鏡で手術をするとなった場合、縫合も患部に直接触れずにやるんですよね、と私が聞くと、「そうですね、私がやるわけじゃないですけど」とのこと。
「やっぱり、手先が器用なんでしょうね、映像を見ながら縫合をしたりするのは。手先が器用ということはゲームセンターのUFOキャッチャーなんかも、やっぱりうまいんですか」私が聞くと、医師のHさんは「そうですね、みんなうまいですね」と事も無げに、という感じで答えた。
 

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苦汁100%と苦汁200%と

 
 尾崎世界観さんのエッセイ(日記といったほうがいいのかな)『苦汁100%』『苦汁200%』と、同じく尾崎さんの小説『祐介』を図書館で借りる。尾崎さんの文章がよく、次へ次へ、と読みたくなる。日記をまとめた書籍としては、この感じは僕のなかでは、高橋源一郎さん以来かもしれない。
 

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動画編集について

 簡単なインタビュー動画のようなものを編集していて思った。インタビューや話そのものが面白ければ、編集は特別なことをせず、ただたんに「つなぐ」だけで十分なのではないか、と。
 
 
 

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蓮沼執太「 〜 ing」で想い出される音やこと


 
 本当はすぐに書こうと思っていたのに、資生堂ギャラリーで行われている、蓮沼執太「 〜 ing≈」(カライング、と読ませたいとのこと)展のブロガー向け鑑賞イベントからすでに1週間以上たってしまった。これだけ時間がかかってしまったのは、少々バタバタしていたこと以外に、どう書こうか思いあぐねていたことも理由だ。
 
 純粋にミュージシャンというより、音を用いて活動をしてきた蓮沼執太による展覧会なのだが、これがどう伝えていいのか、なかなか悩ましい。「現代アートに近い」と書いたのは、現代アートという分野に蓮沼さんを含めていいのか、私には判断がつきづらいからだ。これは、蓮沼さんを「現代アート」には属さないと言い切るのも難しく、かといって、蓮沼さんがやっていることをただたんに「音楽」というのも、なにか違うような気がするからだ。
 
 なんというか、鳥でも動物でもない、とされた「コウモリ」のような存在、とでもいえばいいのか(この表現も、完全にしっくりきているわけではないが)。
 

 
 資生堂ギャラリーでの展覧会では7つの作品が展示されていて、そのうちのいくつかにふれてみたいと思う。
 まず、会場のメインのスペースといってもいい、ほぼ正方形に空間を使った「Ginza Vibration」と「Thin〜Being」。

「Ginza Vibration」は、銀座の外の振動をダイレクトにギャラリーの会場に伝える作品。資生堂ギャラリーのある建物から通りにして3筋ほど離れた、資生堂銀座ビルの屋上に設置されたマイクとカメラによって拾われた映像を、資生堂ギャラリーのメインの空間の床に投影。マイクで拾われた音は、天井から吊るされた4つのスピーカーから流される。
 
「Thin〜Being」は、会場のメインスペースを埋め尽くすように積まれたというか、バラまかれたような金属片の上に人が乗ることで、音が鳴るもの。いや、音が奏でられる、といってもいいかもしれない。
 金属片と書いたが、もっと具体的にいえば、楽器の製造過程で出た金属材。蓮沼さんは「浜松にあるヤマハの工場へ出向き、もらってきました」といったことを話していた。
 
 その金属片に、鑑賞者は乗り、歩きまわることができる。その際、金属片がザザッ、ザクッ、カーン、というような、不思議な音が鳴る。金属片の落ち葉の森の上を散策しているような、そんな気分がした。
 
 その金属片は、蓮沼さんに説明される前から、楽器の一部のようには思えていたが、私が「楽器の不良品のようなものですか」と聞くと、蓮沼さんの答えは「例えば、トランペットの管に必要な部分をカットした際に出る、余った金属片のようなものです」というようなものだった。
 
 なんだろう。金属片の上なんて、おそらくこれまで歩いたことがないような気がするし、美大に通っていた学生時代にしても、石や金属などの破片のようなものが少しはある場所を歩いたことはあるものの、金属片だらけの場所を歩いたことがないはずだし。


 
 と今、書いていても、なんだか似た体験をしたことはないはずなのに、過去に似た経験をしたことがあるような気がしてくる。不思議だ。こういうのもデジャブというのか。
 
 実際、今ふと想い出したのは、高校生の夏休みにパナソニック(当時は松下電器だったか、ナショナルだったか)の蛍光灯の工場でアルバイトをし、ときどき工場のラインでスムーズに流れず、蛍光灯が割れてしまい、割れた蛍光灯を捨てるために砕いた時の音や感触。
 
 あるいは、幼稚園から小学校にかけてスーパーマーケットの上階に住んでいた頃、敷地内にあるダンボールのゴミ捨て場で、ダンボールの山に乗ったり、潜ったりした時に匂いや音。
 
 または、羽根木公園の林の中を散策した時の音や空気。砂浜を歩いたり、走ったりした時の音や香り。
 
 金属片の上を歩くのは少々危ないかもしれない。こけたり、裸足の足に触れたりすると金属片でケガをする可能性もないとはいえないので、すべりやすい靴やヒールの高い靴、サンダルなどでなく、できれば底が薄すぎないスニーカーのような靴のほうがいいかもしれない(底が薄すぎるスニーカーなんてないか)。

 私は金属片の上で、ほんの一瞬、目をつむってみたのだが、自分やまわりの人が金属片を踏んで出している音が、より敏感に感じられる気がして、なんだか気持ちがよかった。

 いわゆる音楽ではない「音」を味わいに、足を運んでほしい。イヤホンやヘッドホンで聴く音楽でない音をひさしぶりに聴いた気がしたし、自分の耳が喜んでいるように思えた。
 
 あれ以来、まちなかの音にちょっと敏感になったような気がする。例えば、「赤」を気にしはじめると、まちを歩いていても「赤いポスト」「赤いクルマ」「赤い服」など、赤いものがやたらと目に飛び込んでくる、という「カラーパス効果」のようなものだろうか。
 
 そういえば、学生時代にバンドを始めて、ベースギターを担当するようになってしばらくすると、低い音の高低を、自分の耳が聴き取れるようになっていて、そのことに自分で驚いたことを想い出す。

「楽器は音楽をつくるためにつくられたもの。その楽器をつくる過程で生まれたものと、鑑賞者であるみなさんが加わることで新しい音楽が生まれないかと思っています」というようなことを蓮沼さんが言っていたが、面白い考え方だと思った。

 かなり注目を集める存在になっているのに、私と話した時も偉そうな感じがまったくないし、みんなの前で作品について説明した時も自然体で、その態度にも私は好感を持った(落ち着いたなかにも自信が感じられた)。

「会場を真っ暗にしても面白いかもしれませんね。さっき、一瞬、目をつむって金属片の音を聴いたら、ここはどこなのだろうと感じつつも気持ちがよかった」と私が言うと、蓮沼さんの近くにたまたまいた女性が「危ないですよ」と笑った。女性はパンプスを履いていたように記憶している。

 あ、そうそう、「Change」という作品は、スマホの画面を大きくしたみたいなもので、金属片があるスペースの端にある。その作品からはニューヨーク州を含む場所で、蓮沼さんが採取した環境音が聴こえる。その作品の巨大なスマホの画面には、さまざまな場所の画像が写っているのだが、その画像は環境音を採取した場所の位置情報からGoogleでイメージ検索したものだと、近くにいた女性が教えてくれた。

 その女性が、蓮沼さんがそのキャリアをフィールドレコーディングから始めた、といったことを教えてくれ、私もそのことを蓮沼さん自身に聞いてみた。それによると、大学時代に(大学の2年生という話だったか。フィールドレコーディングをして音を採取することを始めたそうで、ただそれだけだと過去にも同じようなことをしていた人がいるので、いろいろ考えながら始めた、そんな話だった。

 この「Change」で聴こえてくる音は数種類あって(時間と時間を置いて数回というべきか。ある場所。ある時間に採取(録音)された音が流れ終わると、別の場所・時間の音・画像に切り替わる)、そのなかにニューヨーク州の森で採取したのかな(そこに映された画像からそう思えた)という虫の音があって。下北沢に住んでいた頃を想い出した。

 数年前まで古い一戸建てに暮らしていたのだが、敷地内の庭とも呼べないほどのバックヤードに植物が茂っていて(アジサイが毎年咲いていた)、夏の初めや夏の終わり頃、コオロギや鈴虫が鳴いていたのではなかったか。当時、私はオークラジオをというポッドキャストをわりと頻繁にアップしていて、夜中というか明け方だったか、に虫たちの声を録音したことがある、というようなことも想い出した。

 すれ違った女性の香水の匂いを後日、どこかでかいだ際に「あ、この匂い、前に出会ったはずだ」と感じることがあるが、その「匂いの記憶」のように「音の記憶」というのもあるのだろう。そして、そのなかに「音楽の記憶」もあれば、「環境音の記憶」も。
 
 不思議な「音」体験ができ、(私にとっては)さまざまな音やさまざまなことを想起させる作品だった。あの音たちに会いに(そして、そのことで呼び起こされるかもしれない記憶に会いに?)、また足を運びたいと思っている。

 
 蓮沼執太
「〜 ing」
6月3日(日)まで(@資生堂ギャラリー)入場無料

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絵心を刺激する、池波正太郎の一筆箋

 
 以前にも何度か求めたことがあるのだが、また手にとってみたくなって、浅草の池波正太郎記念文庫へ出かけた。池波正太郎が描いた絵を用いた一筆箋。税込みで1冊300円。ページ数というか、何枚あるか数えてみたら30枚(ここに書くので数えてみた)。

 表紙の大きな絵と、一筆箋の中身の絵。「コハダ鮨売り」という文字が脇に添えられ、江戸前の寿司職人のような男が描かれている。さっきちょっと調べてみたところ、江戸時代の後期、江戸の寿司職人がコハダの鮨を岡持(おかもち)のようなものに入れて売り歩いたのが始まりで、浮世絵にも芝居見物の際にコハダの寿司を食べている光景が描かれているらしい(今度あらためて調べてみようと思う)。

 池波正太郎が描いた映画監督の絵をいくつも集めて、それらをあしらった手ぬぐいも新商品として、受付カウンターに置いてあったので、次はあれもいいかなぁ。

 いや、その前に私も何か描こう。池波正太郎の絵を見ると、なぜか私も描きたくなる。なぜか。無理やり解釈すれば、池波正太郎は本業が画家ではないからしれない。絵が本業でない人ならではの自由さがそこにあるのかもしれない(こじつけっぽいかな)。まあ、本業じゃない人の絵とはいえないほど、池波正太郎の絵は素晴らしく、魅力的なのだが。
 

 
 
 

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文具ファンは「コクヨハク2018」へ急げ!!

 
 
 コクヨハク2018へ行ってきた。初日である一昨日、つまり3月30日に行くつもりだったが時間がとれず、2日目の昨日に足を運んだ。今年のテーマは「ステーショナリーレストラン」。

 実は以前、コクヨハクに行ったことはあったのだが、あらためて会場に身を置いてみて、来場者の数とその熱気に驚く。

 コクヨの魅力的な製品がずらりと並び、それらが魅力的なのは間違いないのだが、来場者の熱意にこっちが押されたような気さえした。おそるべし、コクヨファン、文具ファン。

 限定版の測量野帳やキャンパスノート(なんと大判のA3サイズもあり)をはじめ、目当てをあらかじめて決めてから出かけるもよし、行ってからあれこれ探すもよし。

 先日、取材をさせていただき、そのときに描いていただいた芦沢ムネトさん(パップコーン)の絵(ビワコミックというノート、マンガムテープというテープに、取材中その場で描いていただいた)も展示してあり、作品にも再会できて感激!(取材時の記事はこちら

 まだ間に合う、「コクヨハク2018」はきょうまでの開催。東京駅の丸の内側を出て、左手に建つ「KITTE(キッテ)」の地下1階へゴー。入場無料、午前10時から午後8時まで(だけど、最終日の本日は午後6時まで)。
 


 

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プログラミングは誰かのために(または遊び心・下心から)


 
 もっと早くアップしたかったが、なんだかんだでバタバタして、きょうになってしまった。

 2018年3月14日、「秋葉原プログラミング教室」のプレス向け公開が行われた。この教室、清水亮さん率いるUEIが運営するもので、2年ほど前からUEI のオフィスを利用して行われていようだが、この春から教室を独立させ、会社として立ち上げ、教室を常設することになり、そのお披露目のイベントだったわけだ。

 会場には多くの、なんというか、おそらくプログラミングやAIや教育事業関係の人など(タブレットで学習できる教材を提供している会社のかたもいた)が集まっていたようで、清水亮さんが前で話し始める頃には、会場に並べられた数十席はほぼ埋まり、立っている人もいるほどだった。

 
 
 で、ここからは、清水亮さんのトークを抜粋する。そのほうがわかりやすいと思うからだ。

「2015年11月にプログラミング教室をやりたいということで、(UEIの)会議捨を使って試験的にスタートしました。最初、生徒さんは2、3人というか、最初の最初は社員の子どもなどに対し、とりあえず『教えられるのか」ということでやってみました。

 で、次に、翌年の4月から本格的に開始しましょう、ということになりました。プログラミング教室で黒字が出ているのは、おそらく弊社だけで、おかげさまでFC(フランチャイズ)というか、地方展開も続々と決まりつつあって、ついに、ことし念願の教室が独立するということで、このタイミングで会社を分けました。

 UEIエデュケーションズという会社をつくって、代表というか社長に福岡俊弘さん(初代「週刊アスキー」編集長)をお迎えしてやっていくと。本当はKADOKAWAからどこかの学校の校長をやれって言われたらしいんですけど、
やりたくないって言ってKADOKAWAを辞めた人。でまあ、結局、うちの校長するんかい、と(笑)。ていうのはあったんですけど、

 で、「なぜ、そこまでしてやるの?」っていうと、いくつか原因があって、絶対誰もが言うのが「2020年プログラミング教育必修化」。ただ、別に僕らは役人じゃないので、アクションを起こす義務はまったくありません。

 やっぱり、僕がいちばん危惧しているのは、「プログラミング教育必修化だ!」というキャッチフレーズのもと、お金のことしか考えてない人たちがプログラミングをガキに教えます、とか言って、すごく質が低い授業、質が低い教材、そそして心がこもっていない先生みたいなのが、プログラミングというすごく楽しいものを、つまらないものにしようとしているんじゃないか、と。

 で、僕がいちばん恐れているのは、子どもがプログラミングを嫌いになっちゃうこと。質が低い人が、質が低い教材を使って、志のない人が子どもにプログラミングを適当に教えることが、いかに良くないか。

 これを外から文句を言っているだけだと、かっこわるいので、多少、身銭を切ってでもやりたいと思ったのです。

 僕自身の経験を言っちゃうと、6歳のときにコンピュータにはプログラミングというものがあるのを知るわけです。で、7歳でプログラミングを書いて、8歳のときに「ベクトルってすげえな」みたいな。

 で、9歳くらいになると初めて3Dプログラムを書いて、10歳になって初めて行列の意味が分かって、行列面白いじゃんと…(清水さんの話はまだ続き、な内容も面白いのがこのあたりは省略させていただく。すいません)。

(中略)

 いかにAIを使って遊べるのか。こないだとある電機メーカーのエンジニアが来て、彼らが「今、どういうことをやっていますか」と聞くから「こういうことやって、こういうことやって」と話をしたんです。

 すると「えっ、これだけのたくさんの人口知能の事例を誰が考えて、どんなチームが…」などと聞くので、「こんなにたくさんの」。今年、30コの人口知能をつくったんですね。「30コの人工知能をつくるチーム、何人いるんですか」って聞かれて。うちの社員20人しかいないから、手を動かす人は15人くらいいるけど、考えるのは僕とあともう1人くらいですよ。

 結局、アイデアなんだよね。それをなんでそれだけ働けているかというと、人工知能で遊んでいるから。だから、やれと言われなくてもやってるから。それは別に、楽しいからやっているのであって、あの、あまりにも楽しくて、会社のコンピュータ、勝手に家に持って帰って、家で人工知能をつくってるんですけど、そういう考え方が大事だと。結局、よく、AIが人の仕事を奪うとかなんとかっている話があるんですけど、いちばん重要なのは、人間の最も素晴らしい能力は想像力なんですよ。

 僕らが思っているのは難しい理論を理解することも楽しいんだけど、楽しみとしてやればいいだけであって、必要なことじゃない。むしろ、いかにAIを使って遊べるのか。で、それは楽しいからやっているわけで。どんなことができるのかっていう、想像力を使う能力のほうが絶対重要になります。

 で、結局よく、AIが人の仕事を奪うとかなんとかって話があるんですけど、いちばん大事なのは、人間の持つ最も素晴らしい力は想像力だから。これだけはですね、人工知能がなかなか獲得できない。いろいろ考えた結果、わかったのはそれがいちばん難しいってこと。想像力を持つ人工知能をつくるのが、最も難しいんだと。だから、これから先、人工知能とうまくやっていくために、人間が持たなきゃいけないのは想像力なんです。

 で、実際、AIプログラミング講座をやっていて、最先端お動画教材と実技で学習。あと、GPUっていうね、部品だけで10万円オーバーの、しかも今、仮想通貨の採掘で秋葉原では1人1枚までみたいな制限がついて買えないみたいな。最近はみんな、中国まで買いに行くんですよね。もう、これすごいですもん、奪い合いですもん。ま、現代のオイルといわれている。工場で生産されて、出てきたそばから強盗団が持っていくみたいな。そんなGPUマシンを、うちのプログラミング教室では使うことができます。

 月に1回、僕が1時間半くらい、その月までにあった新しい人工知能の話題をオーガナイズして説明するという座学があったりとか、みんなでSlackを使っていろいろ情報交換したりとかやっていて、これが実は大人には人気があって。こんなことができるプログラミング教室はうちだけですから。

(中略)

 あの、AIのIQって25,000くらいあるんです。これは嘘じゃなくて、計算方法があってIQって、「生活年齢」割る「精神年齢」なんで、そうすると25歳の人が満点をとれる問題を10 歳で解いたら、IQ250なんですよ。それを1年しか学習していない人工知能が解いたら、それ1歳児が25歳なので、2,500。36日で解ける、学習できるAIがあったら、それはその10倍だから25,000と。そんな変な話じゃない。だから、IQの高さってもはや、人間の能力を測る指標としては使えないですね。

 学校教育は、同じことをする人をたくさんつくろう。それはそれで意味があったんです、20世紀までは。ここには想像力ってほとんどいらないです。再現性だけが必必要。でも、これから先って、そうじゃなくてもっとスパイク型の、好きなことだけやってください。だから、僕がよく言ってるのはYouTuberしか残らない。YouTuberみたいな生き方。好きなことだけやろう、っていう生き方しか残らないと思う。

 もう1つ大事なのは、アルファシリーズ。アルファGo、アルファゼロみたいなのがあって、これって何が教えてくれるんですかっていうと、僕はもともと囲碁のゲームをつくってましたから、20年くらい前に囲碁のゲームをつくるときに、囲碁って勝敗判定じたいがものすごい難しいんです。にも関わらず、ゼロから勉強して囲碁、将棋、チェス、ポーカー、なんでもかんでもアルファゼロシリーズが解いちゃうと。これってどういうことかというと、今まではこうしたら勝てるっていう理屈が大事だったんだけど」

 などと清水亮さんの熱く、濃く、面白い話がたっぷり聴くことができた。途中、1台20数万円のディープランニングマシンを用い、デモンストレーションのようなものが行われた。そのなか、人工知能対人工知能が3目並べ(マルやバツを3つ並べるゲームみたいなの)をやるとどうなるか、というのを見せてくれたがそれがまた面白かった。人工知能どうしだと、おたがいに負けない方法お探り出すというか、覚えるからから、100回やって100回引き分けのような結果になっていた。

 
 
 で、そのあと、古川享さん(慶應大学大学院メディアデザイン研究科教授、日本法人マイクロソフト初代社長)と遠藤諭さん(角川アスキー総合研究所取締役兼主席研究員)をゲストに迎え、清水さんが司会のような立場でトークセッションが行われた。

 そこで特に印象深かったのは、こんな発言。「僕が知っているエンジニアで成功している人には2つ共通点があって、1つはテレビやラジオなど、子どもの頃からなんでも分解していたことと、もう1つは百科事典を端から端まで読んでいたこと」といったことを古川さんが口にしていた。

 また、古川さんは「何をきっかけにプログラミングを始めるかなんだけど。まずプログラミングじゃなくて、自分のつくりたい世界を自分が実現するっていう、そういうところからスタートしてっていう想像力が。たんに何行書いて、コンパイルして何が出るって話じゃなくて、想像することが楽しい。そこからスタートしたほうが、すごく深いところまで行けるんじゃないかな」が言い、清水さんは「想像力と怠け心なんですよね」と返すと、遠藤さんが「プログラマーの3大美徳ですね」と口にした。

 すると「あとの2つは何ですか」と聞く清水さんに「忘れちゃった」と答えた遠藤さんが、これまた良かった。3大美徳を忘れてしまう、それこそ怠け心かもしれない。

 続けて、古川さんはこんな話をした。「自分の母親が、ワシントン・ユニバーシティの理事とかやっていて、寄付にも携わっていて(担当としてということか)、お母さんがいろんな数字にまみれて大変そうだから、なんか手伝ってあげたいと。身近にいる人の問題解決をしたいってところからスタートしている人がけっこう多いんですよね」(これ、ビル・ゲイツの話だったのかなぁ)

 それに対し、遠藤さんが「これ、ほんとにいい話だと思って、実はパスカルの計算機ってあるじゃないですか。パスカルもお父さんがなんか徴税官で、大変なんで。実はパスカルで有名な真空に実験はなかったらしいんですけど、って長くなるんでこの話はやめますけど、パスカルも(きっかけは)お父さんだったんです。

 実はプログラミングのイベントをうちでやらせていただいたときに、古川さんに来ていただいて、そのときに古川さんがまさにいま言ったことをおっしゃって。それ、すごいじゃないですか。たとえば、会社の同じシマの女子にちょっと近づきたいからExcelのマクロ教えるみたいなのでもいいです。

 とにかく誰かのためになるってのがすごく重要で、今のプログラミング教育、そういう人もいると思うんだけど、やっぱりIT人材だとか、お金が稼げるからからというのもそれもいいんだけど、下手するとお国ためみたいなのでもいいんだけど、いまどき、人のためになれって、そんなにないですよ。これ、ちょっとしたことでなれちゃう。すごくないですか」

 と、遠藤さんが言うと、古川さんが「ザッカーバーグって最初に、大学の授業を受けるときね、すべての授業で自分の好きな子が隣に座るように組んでたみたいで。座席が決まってたのかどうかわからないけど、下ごころ万作みたいな状態でプログラムを始めるっていうのは、生きる糧の中で重要な欲の部分だからね」

 プレス公開イベントのことを全部書くともっと長くなるんだけど、まずはこのくらいで。AIもプログラミングも面白そうだし、めちゃくちゃ気になるけど(僕が教室に通いたいくいらい)、それよりもなによりも、この3人のように遊びごころ万作の人間になりたいなぁ、とそう思った。プログラミングよりもAIよりも(というのもなんだけど)、魅力的な大人たち(いい意味で子どもたち(?)かもしれないけど)だなぁ、とこの文章を書きながら、あらためてそう感じている。
 
 

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MをWに

 
 今、たった今、あまり時間がないので多くは書けないが、「あとからにしよう」と思うと、そのままになってしまいそうなので書いておく。
 アメリカ・カリフォルニアのあるマクドナルド店が「M」のマークを国際女性デーに合わせて引っくり返して「W」にした、という記事を読んだ。これを見て思い出したのは、現代美術の中村政人さんの作品だ。中村政人さんのマクドナルドのMサインを並べた作品について、ギャラリーSCAI THE BATUHOUSEのサイトの中の「Exhibitions」というページには、「私たちが普段街の中で見慣れている何気ない形は、アーティストの視点と創造力を通して提示された時、まったく違った驚きをもたらしてくれます」とある。
 19年以上前に開かれた中村政人さんの作品展と、いま、私はつながった気がする。いや、というよりも、中村政人さんの作品はいま見ても素晴らしく、そして、カリフォルニアのあるマクドナルド店の「MからW」もアートに負けないくらい素晴らしい、といまの私には感じられる。
 
 
 

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