ご無用とゴム用

 
 Audible(オーディブル)という音声サービスで、ある本を読んでいたら(正確には、聴いてきたら)

 その心配は ごむよう である

 という言葉が出てきた。これは無論、「その心配はご無用である」が正解なのだろうが、私はなぜか「その心配はゴム用である」だと思ってしまった。いや、一瞬で自分の間違いに気づき、「ゴム用」でなく「ご無用」だよな、と気づいたがこういう場合、なぜか「ゴム用」が気になってしまう。こういうの、私だけなのだろうか。

 一度、勘違いしてしまうと、頭では理解できても、間違った連想はなかなか収まらない。

 私が記憶しているところだと、学生時代のことだっか。お笑いコンビの「ウッチャンナンチャン」をテレビで初めて観たとき、私はなぜだか、ウッチャンとナンチャンを逆に覚えてしまった。どっちがどっちなのか、名前と顔が一致するのに、その後しばらくかかったような気がする。

 最初の思い込みというのはやっかいなのが。
 
 
 

天気予報と動物的勘

 
 洗濯物を干しながら、ふと思う。きょうは降りそうだな、なんて。
そんなとき、きょうの天気予報はどうなっていたかな、と
新聞を天気欄をチェックしたり、スマートフォンで天気予報を
調べたりして、あ、きょうは降らないな、と思ったりする。

 で、結果はどうかというと。洗濯物を干したりしながら感じた
自分の勘のほうが当たっていた、ということもときどきだけど、
ないことはない。

 そこで思うのだ。自分の勘を信じなきゃ、と。
新聞やスマホの天気予報が外れたって、どっちみち
誰も責任なんか取らないし(取りようもないけど)、
だったら、自分の勘を信じようよ、と。

 天気予報が当たる、当たらないもあるけれど、
それだけでなく、自分の勘を信じてあげないと
動物的な部分がどんどん失われていってしまう。
そんな気がするのだ。

 太古の時代から現代まで生き抜いていた、僕たちの
種の遺伝子というか、生存本能みたいなものが
「きょうはちょこっと降るぞ」「きょうは傘は持たなくていいぞ」
などと教えてくれている気がするし、そんな
見えざる声に耳を傾けたいと思う。
 
 

やることがない、という残念

 
 歳上のある方がこんなことを言っていた。「定年してからやることがなくて、毎日暇で」

 そんなに暇があるのか、とちょっと羨ましくも感じつつ、いやいや、やることがないっていうのはどうなんだろう、それって贅沢というより残念だなと思った。

 私はこれまで大したことをやってきたわけではないけれど、「何もやることがなくて暇」と感じたことはこれまで一度もないんじゃないだろうか。

 なんて思う私が、ただたんに貧乏性なのだろうか。

 私の場合でいえば、読みたかった本を読みたい、古本屋めぐりをしたい、美術館で絵を見たい、映画も見たい、プログラミングの勉強をしたい、絵を描きたい、運動をしたい、散歩したい、外国へ行きたい、知らない場所に行ってみたい、コーヒーを飲みながら楽しくおしゃべりしたい、ひとりで飲みに行くのもいいかも、など時間があったらやりたいことがいっぱいあるもの。
 
 やることがなくて毎日暇、というのはわるいことではないだろうが、と書きつつ、そういえば数年前、同じような発言を別の人からも聞いたなぁ、と思った。

 その人は最近、足腰が弱ったためか、車椅子に乗られているようで、ここしばらくお目にかかっていない。

 やることがなくて毎日暇。これって、一生懸命に長く働いた男性の定年後に多いのだろうか。趣味がほとんどない、会社を離れてみたら自宅の近くに友人がほとんどいないなど、サラリーマン男性にありがちかもしれないけど、そういうのってちょっと残念。

 女性は「やることがなくて毎日暇」なんて言わない気がするなぁ。気がするだけなのだろうか。
 
 
 

静岡大学と日本マイクロソフトによるクラウド「反転授業」などの取り組み、2017年4月に本格スタート

 
 静岡出張で取材し、執筆した記事がアップされたので、ここでも紹介させていただく。掲載メディアは、高校生までの起こさんの保護者を中心に、さまざまな教育関連情報などを日々配信しているウェブサイト「リセマム」。

 第1弾:静岡大学と日本MS、クラウド「反転授業」の教育改革

 第2弾:静岡大学と日本MS、クラウド「反転授業」の教育改革
 
 
 

ティム・クックのメッセージ(ドナルド・トランプがアメリカ大統領に選ばれた直後)

 
 アップルCEO、テイム・クックによる、ドナルド・トランプが米国大統領に選ばれたことで不安になっている(かもしれない)全社員に向けたメッセージが素晴らしい。私はfacebookでこのメッセージの存在を知ったのだが、リンク先はiPHone Maniaというサイトで、もともとはBuzzFeed Newsに掲載されていたものだという。だから二次情報、三次情報どころか、四次情報ともいうべきか。

 それはさておき、そうだよ、そうだよ。いろいろな人の多様性を受け入れる以外に、前へ進む道はない。そうなのだ。これは、ティク・クックにとって、アップル社員にとって、だけでなく、誰にとっても重要なメッセージだと思う。
 
 
 

映画『奇跡』の中の奇跡

 
 是枝裕和監督による映画『奇跡』。2011年公開のこの作品は、九州の福岡県と鹿児島県に分かれた暮らす兄弟を描いた映画である。ふたりは両親の離婚を機に、鹿児島にある母親の実家に兄(大迫航一、お笑いコンビ「まえだまえだ」の兄・前田航基)は住み、弟(木南龍之介、「まえだまえだ」の弟・前田旺志郎)はバンドマンである父親と福岡で生活。兄弟は仲が悪いわけでなく、携帯電話などでときどき連絡をとりあっている。兄は小6、弟は小4くらいだろうか(一度見ただけでは、弟の学年はわからなかった。僕が見逃しただけかもしれないが)。
 この映画、大きな事件が起こらない。離婚というのは、実際の世の中では大きな出来事かもしれないが、ここで僕が言う大きな事件とは、爆発やカーチェイス、殺人や銃撃、派手な殴り合いなどのことで、そのような「わかりやすい派手さ」がなくとも面白い映画はつくることができる、ということを証明してくれているような作品だ。もともと、そのような「派手でない」映画は、僕はどちらかというと好きなのだが、たとえば小中学生の男子などは地味だと感じて、面白く思えないかもしれない。
 事件うんぬんだけでなく、是枝監督の演出は派手でなく(抑制がきいているといってもいいだろう)、ドキュメンタリー映像出身の監督だからなのか、ところどころにここは「いわゆる映画」というより、「ドキュメンタリー映像」のようだなと感じるシーンがある。特に、子どもたちがメインの場面では、その傾向が強くなるように思えた。
 たとえば、福岡でのあるシーン。ある生徒(有吉恵美)の住まいであるスナックの2階にて夢を語り合い、ひとりの子どもがベイブレードを3つしか持っていないで増やしたい、と語る。この場面(この場面だけではないのだが)、僕には本当に自然な会話に見えた。なんといえばいいのか、まずセリフが自然で、是枝監督は子どもに取材してからセリフを書いたのだろうかとも思えたし、是枝監督はウソっぽい演技にならないため、子どもが俳優をするシーンでは事前に台本を渡さずに、その場で見せて演じてもらうそうだが、その方法が(特に見事に)うまくいっているからなのか、わからないが、隠しカメラで撮ったというのとも違う、家族の信頼を得ている父親がホームビデオで撮影した映像のような、自然さと安心感がある。子どもが出てくるシーンがいい、という評は是枝監督の作品について何度も目にした(耳にした)ことがあるが、この場面なども本当に素晴らしく感じた。
 著名人が母校を訪ねる、NHKの『課外授業!ようこそ先輩』という番組があるが、あの番組に登場する、小学校の教室で質問に答える生徒のような自然さがある。
 自然に見える、と書いたが、では「演技における自然さとは何か」という点についても考えるべきかもしれないし、逆に「不自然な演技とは何か」ということにも言及する必要が出てきそうだが、それについてはまたあらためて考えてみようと思う。是枝監督は脚本も書き、編集も担当している。そのことも、「自然な演技」(に見えること)と密接に関係しているのだろうが、それについてもそのうち考察してみたい。
 映画を見ながらこの音楽は誰が担当しているのだろうと気になっていたが、「くるり」だった。


 
 
 

陰でこそこそホメる

 
 誰かのことを悪く言うと(僕も愚痴ってしまうことあるが)、後味が悪いもの。ということは、後味を良くするには、誰かのことをホメるといいのではないか。陰でこっそりホメるのは、よりグッドかもしれない。