5分スケッチ「ガール」

 

 
  朝から「バルテュス展」に足を運んだ本日。夕方になって、ボールペンをスケッチを楽しむ。「バルテュス展」を鑑賞した影響は、この絵には見受けられないように自分では思う。実は、微妙に影響されていたりして(どこが? という感じがするけど)
 
 
 

孤高の画家「バルテュス展」

 
 
 
 朝から自転車で上野へ向かい、『バルテュス展』鑑賞。秋葉原のヨドバシカメラに寄ってから帰る。バルテュスは正直、今回の展覧会まであまり気にとめたことがなかった。下着が見え、エロティックな「夢見るテレーズ」や「美しい日々」をはじめ、興味深い作品がいくつもあった。ただ、バルテュスが美術史の中でどのような位置付けの作家なのか、よくわからなかった。

もちろん、美術界の最先端を突き進まなければならないわけではないし、美術史の流れと切り離して作品そのものを見るということはできるはずだし、それはそれでいいと思う。ピカソがバルテュスについて「20世紀最後の巨匠」と評したらしく、そのひとことが僕の中につきまとってしまっていたのか。

「絵を描くことは祈りの一つ、神に行きつく一つの道だと、確信しています」や「バルテュスは芸術家と呼ばれることを嫌い、自らを画家であり職人であると常々述べていました」といった言葉が展示されていたので、バルテュス自身は芸術や美術の流れなどとは一線を画したところに、自らの創作の拠り所みたいなものを置いていたのかもしれない。

実際に作品を生で目にする前よりも、(実物を目にした)今のほうが「バルテュスをどうとらればよいのか」わからなくなっている気がする。「孤高の画家バルテュス(展覧会チラシより)」は、他の作家と並列で語りにくいのだろうか。
 
 
 上記の内容を(facebookに)書いたあと、バルテュスについて調べていたら、NHKのサイト内にこのような記述に遭遇した。
 

 最後に節子さんは、こうおっしゃいました。
「バルテュスは『何の説明もなく、ただ絵を見てください』というのが本人の一番の希望。音楽と同じように、あるひとつの心に打たれるように「あっ」と思って絵を見て、
そしてそれはそれで、絵自身の持つ、人に対する反応を、バルテュスは大切にしていました。だからただ、無心に見て下さいと」

※節子さんとは、バルテュスの妻。
 
 
 

美術品の復元について思うこと

 
 今朝とどいた朝日新聞の別刷り「(青い)be」に、小林泰三さんという方が出ている。肩書きといっていいだろう、名前の横にデジタル復元師・色彩家とある。
 
 その記事を読んでいて、ふと思ったことがある。冒頭の2段落分を引用させていただく。
 

 時とともに失われた国宝の色彩を、最新のデジタル技術を駆使して、鮮やかによみがえらせている。高松塚古墳の壁画や花下(かか)遊楽図屏風(びょうぶ)、天平の仮面と、平面から立体まで手がけたレプリカ作品は数十点に及ぶ。
「えっ、最初はこんなにど派手だったの」。復元作品を目の当たりにすると、こぞって驚きの声が上がる。古(いにしえ)の美術品から「わびさび」を感じ取る人は多いが、作品は時を超え、「経年変化」で著しく退色しているのも現実なのだ。
 
 
 これを読んで、作品の復元について思ったのはこういうこと。復元するということは、完成時の状態に戻すことで、別のいいかたをすれば、「できあがった」ときの状態に立ち会うこと。それはそれでもちろん素晴らしいし、立派なお仕事だと思うが、歴史的な作品が「新品」の状態であることを鑑賞者が喜ぶかどうか、それは微妙だろうなぁ。
 建築であれば、新築時の状態ということだろう。分譲や賃貸のマンションならともかく、東大寺が新築であったとしたら、人々はありがたいと思って、参拝するだろうか。
 だからといって、作品ができあがった状態から百年たったように「経年劣化」をシミュレーションしたり、わざと古く見えるエイジングみたいなことをするのもまた違うだろう。それに、わざと年季が入っているように見せると、今なら捏造といわれかねない気もする。

 紙面では横長の大きな写真の下に「「風神雷神図」の前で。鮮やかな緑になった「風神」は、白銀の雲に乗って軽やかに漂う=東京都江東区のWOWOWスタジオ」とある。
 
 復元というのはむずかしく、そして素晴らしく価値のある仕事だと思うが、その一方で、復元された美術品を目にすると、けっこう複雑な気持ちになるのだろうとも感じる。
 
 
 

吉祥寺で2つの展覧会

 
 やることはあったのだが、3日からはむずかしそうなので、吉祥寺で展覧会を見てきた。江口寿史「キングオブポップ(予告編)展」(リベストギャラリー創」と野村浩「Slash/Ghost」(A-things)。どちらからもいろいろ感じるところがあり、刺激を受けた。
 




 
 

 

ベン・パターソンの登山パフォーマンス

 
 フルクサスの活動にも参加したことのあるベン・パターソンが、東京都現代美術館のエントランス・スペースでパフォーマンを行った。10年前に富士山登頂をめざし、あと200メートルの地点で諦めた経緯を持つベン・パターソンが、富士山を縮尺した小山のようなものを作り、その山に登るというパフォーマンスを行った。
 現在、80歳だというベン・パターソンは、登山服のような装いをして、かわいいおじいさんという感じ。観客は外国人らしき人も少なくなかった。
 
 

 
 
 

 

絵は上手い下手ではない

 
 図書館で偶然出会った『松本零士 創作ノート』という本にこんな一節があった。僕が絵に対してなんとなく抱いていた疑問に答えてくれるもののようにも思える。もちろん、「絶対に正しい絵」というものはどこにもないだろうが、松本零士さんの意見は興味深い。
 絵についての記述が最初目にとまったので、「絵というのものは」から始まる部分のみを、と思ったが、ちょっと前から読んだほうが、松本さんの創作に向かう姿勢などがよくわかるので、少し長くなるが引用させていただく。
 漫画やアニメに限らず、創作にたずさわる多くの人の参考になるかもしれない。
 
 
『男おいどん』を描いている間、読者からたくさんの手紙をもらった。
「じつは私もそうだった」とか「急に彼氏が明るくなったので、なぜかと聞いてみたらこの漫画を読んだからだと言っていた、ありがとう」など嬉しい手紙がいっぱい来るようになった。こういう反応を見ていて、あるひとつの社会的通念とか世界観があると、共感してくれる読者はいるものだと確信した。
 それからもうひとつ、納得したことがあった。
 絵というものは上手い下手ではなく、好感を持たれるかどうかが第一義的な問題であるということだった。もちろん、技術的にあるレベルが必要なのは言うまでもない。が、それを越えたとき、上手い下手では測れない、何かがあるのだ。会ったときに好感を持つ相手とそうでない相手がどうしても存在するように、絵も好感を持って迎えられるものとそうでないものがあるのだ。では、読者に媚(こ)びれば誤摩化せるのかというと、そうはいかない。自然に滲み出てくるものが受け入れられるかどうかという世界なのである。そして、それは世に出してみないとなかなかわからないのだ。
 この漫画の中で、私はできる限り自分の体験を赤裸々に描くことにした。
 いちばん恥ずかしいインキンタムシのことを描いてしまえば、残りの経験で恥ずかしいことなど、ないも同然である。登場人物、そして事件も身近な人がモデルだ。 
 
『松本零士 創作ノート』(P.41〜42)

著者:松本零士
監修:宮川総一郎
発行:KKベストセラーズ
 

 

 

作品すべて買うことができる「菊地敦己展」

 
リクルートG8での菊地敦己展。最終日に間に合った。作品のデータがウェブサイトでダウロードでき、さらにそのデータを元に出力し、展示されたものを販売。会場内のすべての作品が購入可能というのもユニークだった。展示されていた菊地さんの作品はすべてが、短時間でつくられているように見えた。実際はそうではないかもしれないけれど、だとしても、菊地さんは「決定」「決断」が早いアートディレクター/デザイナーに違いない。そう感じさせられた。
 
 

 
 
 

森村泰昌さんと杉本祐子さんの個展などを銀座でハシゴして

 先週の木曜、銀座のいくつかのギャラリーなどを自転車でまわった。
 
 

 最初に訪れたのは、銀座の中ではどちらかというと新橋に近い資生堂ギャラリーでの『LAS MENINAS RENACEN DE NOCHE 森村泰昌展 ベラスケス頌:侍女たちは夜に甦る」』(9/28〜10/25)。バロック期のスペインの画家、ディエゴ・ベラスケス(1599〜1660年)の代表作のひとつ、「ラス・メニーナス(女官たち)」の登場人物を、森村泰昌さんが一人で演じているもの。会場での説明文にも「一人芝居」と書かれたいたので、一人で演じているといってもいいだろう。この絵に描かれた登場人物(ベラスケス本人も登場していてユニーク)をすべて森村さんが演じ、さらに描かれた空間の中からとらえた、さまざまなアングルの作品が全8幕の連作に仕上げられている。この作品は森村さんにとって大掛かりであるため、森村さん自身が客員教授を務める京都芸術大学のスタジオで、学生さんたちと約2週間かけて制作されたという。その制作風景などはこちらの映像で目にすることができる。
 

 

 
 
 次に訪れたギンザ・グラフィック・ギャラリー(ggg)では、『長嶋りかこ展 ビットウィンヒューマンアンドネイチャー(BETWEEN HUMAN AND NATURE RIKAKO NAGASHIMA)』開催(10/3〜10/28)。このギャラリーでこれまで目にした展覧会では、過去の作品を集めたものか、会場を想定して新たに制作された企画展が多かったという印象があり、その意味では1階が企画展、地階は長嶋さんのポートフォリオのような会場構成ともいえるが、1階に展示されていたのは、生活に身近な“身にまとうもの”であるという点が、かなり個性的に思えた。つまり、長嶋さんが提案するファッションといってもよく、会場で試着、販売されていた。ラフォーレ原宿などの広告のアートディレクターを務める長嶋さんらしいアプローチととらえることもできるかもしれないが、ブティックのように仕上げられた会場(1階)に意表をつかれた。
 
 

 その後、すぐ近くにあるドーバーストリートマーケット ギンザをのぞく。ここは、川久保玲さんがディレクションするコンセプトストアで、川久保さんのコムデギャルソン グループのブランド以外のショップも入っていて面白い。屋上の神社にお参りもできて、銀座の真ん中に近い場所とは思えない体験ができた。
 

 

 その後、京橋方面へ移動し、ポーラ ミュージアム アネックスの『selfish;yuko sugimoto』(10/4〜11/4)へ。イラストレーターの杉本祐子さんは僕の高校時代の同級生で、3年前に同窓会で再会できたと思ったら、それからほどなくて夭折してしまった。いわゆる画材だけであく、化粧品まで用いて描かれたファッショナブルなイラストを見ていたら、惜しい才能をなくしてしまったという思いがあらためて強くなった。もちろん、個人的にも残念でならないが、優れたイラストレーターを失ったことによる損失も少なくはないだろう。と書きつつ、さまざまな記憶が甦っていて正直つらくなってしまうので、多くは語らないでおく。
 あ、ひとつ付け加えておくことにする。前出の森村泰昌さんの女優シリーズの撮影メイクアシスタントを杉本祐子さんがある時期務めていて、その二人の展覧会が同時期に銀座1丁目と8丁目で開催されているのは、ただの偶然かもしれないけど不思議な巡り合わせに思えた。
(『selfish;yuko sugimoto』大阪展は、中之島デザインミュージアムで11/8〜17開催)
 

 
 
 この日の締めくくりは、京橋のLXILギャラリー(以前のINAXギャラリー)で、妻にすすめられた『中谷宇吉郎の森羅万象貼展』(9/2〜11/23)へ。雪の結晶などを研究し、世界で初めて人工雪をつくる方法を編み出したという中谷宇吉郎の熱心さ、真摯さに感銘を受ける。物理学者であり、俳人・随筆家でもある寺田寅彦に師事したという中谷宇吉郎は文章力にも優れ、岩波書店などから書籍を上梓している。
 LXILギャラリーの書店で読んだ、雑誌『考える人』に掲載された村上春樹の寄稿文や、たまたま目にして手にとった俳優・山崎努さんの『俳優のノート』も興味深かった。同書は、山崎さんが舞台「リア王」に出演するまでを日記形式で綴ったもので、俳優とは何か、演技とは何ぞや、といったことへの山崎さんなりの考えがしるされているといっていいだろう。文庫版の解説は香川照之さんが書いていて、俳優なら必読、俳優でなくても読むべきだというように熱く語っている。
 

杉本祐子さんの作品集のデザインはグルーヴィジョンズ。嶽本のばらさんのショートストーリー「クウィーン・スカル」所収。
 

 
 

直感によるイメージを仕上げる作業は「つじつま合わせ」

 
「直感によって得たイメージを最後まで、絵としてきちんと仕上げる作業はやはり「つじつま合わせ」にすぎない」山口晃さん

 ほぼ日に、画家の山口晃さんへのインタビューが掲載されている。

 それを読んでいて、ちょっとニュアンスが違うかもしれないけど、漫画を描く作業は頭の中にあるイメージを(紙の上に)トレースすること、というような話をタナカカツキがしていたのを思い出した。
 デジタルのまま仕上げる場合もあるだろうから、紙の上にトレースするとは限らないが、頭の中に完成されたイメージとして出来上がっているビジュアルを、実際に目に見えるようにアウトプットするのはめちゃくちゃくちゃ面倒で、退屈な作業だ、みたいなことも口にしていたなぁ。
 
 
 

「会田誠展は児童ポルノにあたるのか」について思うこと

 
「『全裸の少女の絵』を展示した会田誠展は『児童ポルノ』にあたるのか?」という記事を読んだ。

 それで思ったのは、児童ポルノかどうか、ということよりも、会田さんも市民団体から抗議を受けるくらい大物になったのか、ということ。会田さんは、現代美術の世界ではとっくに名の知れた存在だったと思うが、市民団体から抗議を受けたことがここまで大きく報じられることはなかったのではないか。

 僕は今回の記事を見つけたのは、ヤフーのトピックスで取り上げられていたから。会田さんの展覧会は、昨年11月から森美術館で開催中だが、都心のメジャーな美術館で個展が開かれていることで、市民団体も、会田さんの存在および、会田さんの作品をほおっておけなくなったのだろうか。

 市民団体の抗議を受けたことで、現代美術家は市民権を得る。というわけではないだろうが、このような抗議によって、さらに観客動員に拍車がかかったり、作品の価格が上がるということもあるのではないだろうか。

 市民団体の抗議が、結果的に会田さんの名をさらに世に知らしめることになっているのかもしれない。こう書きながら、赤瀬川原平さんの千円札裁判や、大島渚さん監督作の映画「愛のコリーダ」事件裁判を思い出す。いずれも芸術と犯罪の境界線が問われた裁判といっていいのではないか。

 
 今回の件について、会田さんはこのような文面を発表している。森美術館の公式ウェブサイトのニュース欄に
「会田誠展についてーー館長、アーティストからのメッセージ(2013.02.06)」にこうある。
 
 芸術を考えるうえで重要な文章だと思えるので、全文を引用させていただく。
 
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みなさまへ
                                 会田 誠
 
 僕の作品群の中には、性的なテーマとは限りませんが、人によってショッキングと受け取られる表現があると思います。そういう場合、僕は必ず、芸術における屈折表現――僕はそれをアイロニーと呼んでいますが――として使用しています(あるいは、僕個人はこの言葉をあまり使いませんが、『批評的に使用しています』と言い直してもいいのかもしれません)。けして単線的に、性的嗜好の満足、あるいは悪意の発露などを目的とすることはありません。また「万人に愛されること」「人を不快な気分にさせないこと」という制限を芸術に課してはいけないとも考えています。発表する場所や方法は法律に則ります。
 
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 最後のほうの「「万人に愛されること」「人を不快な気分にさせないこと」という制限を芸術に課してはいけないとも考えています。」という部分について、ものを生み出したり、表現する人はどう思うだろうか。自分自身へも含め、問いたいような気になる。